中国文化と日本文化の関係は?

西武拝島線東大和市駅から青梅方向に青梅街道を行くと、新青梅街道とぶつかる所に庚申塚というバス停(地名ではない)があります。
庚申とは、中国から伝わった、十干と十二支の組み合わせの一つで、それは様々なものを数えるときに使われていて、六十通りある内の一つです。ネットのWikipediaに一覧表があります。
身近なところでは、年数を表すときもあります。例えば六十年が還暦とかもその一つです。また、暦にも使っていて、例えば今年は、戊戌です。昭和の頃などは、丙午(昭和41年)というのは、縁起が良くなくて、子供の数が丁未(昭和42年)と比べて少なくて、高校受験などで、対策に追われるとか、少子化の今からするとぜいたくな悩みというか、その1年だけの話だったから、対策に追われたのかなということがありました。
話を庚申に戻すと、中国から、遣唐使で伝わったのが仏教だけでなく、道教も伝わり、平安時代には庚申参りというげん担ぎが始まったそうです。年数ではなく、一日の時間を計るのに使っていたみたいです。それで、東大和市は、平安時代から人が住んでいたことが分かります。
あと、wikipediaに詳しく書いてあるのですが、なぜ百二十通りではないのかということです。
十干と十二支の組み合わせといっても、正確には、十二支が先に出てくるのみです。それが順番通りというのなら、アラビア数字や西洋の横書きの影響を受けていれば、百二十通りではないかと思います。中国由来の文化はこういうものだったと、現代の日本では使われることの多い、スポーツのスコアのような表に、Wikipediaのナンバリングしてある一覧表を当てはめてみて、わかりました。空欄がそれぞれに1個つづ付き、十二支が10個終わったら、つまり十干の方がなくなったら、その時点で別の十二支と十干の組み合わせに飛んで2個という事でした。

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